location:ホーム> 大阪探検記 大阪城公園> 大阪城天守閣

*大阪探検記(大阪城公園)

大阪城

大阪のシンボル大阪城を探検しました。大阪城は広く、本丸・二の丸部分だけでも約73万㎡もあり、周辺を含め大阪城公園全域になると約107万㎡にもなる一大史跡公園で探検するには、もってこいの公園です。大阪城の江戸時代の古建造物13棟をはじめ、さまざまな文化・スポーツ施設などをあります。

* 大阪城公園メニュー

下のメニューから閲覧したい名所をクリックし、選択ボタンをクリックすると各名所にジャンプします。

* 大阪城公園案内地図

下の大阪城公園案内地図の番号をクリックすると、各名所案内にリンクされています。

大阪城公園図
大手門・多聞櫓 柱継ぎ 大手口桝形の巨石 千貫櫓 城代井戸 坤櫓跡 西の丸庭園 乾櫓 迎賓館 焔硝櫓 豊松庵 六番櫓 抜け穴 修道館 太鼓櫓跡 豊国神社 一番櫓 桜門 蛸石 銀明水 振袖石 博物館 金蔵 タイムカプセル 紀州御殿跡 本丸広場 金明水 謎の石組み 謎の石組み 隠し曲輪 山里丸 極楽橋 京橋口 伏見櫓跡 青屋門 梅林 石垣刻印 玉造口 音楽堂 噴水 野球場 大阪城ホール 内堀 空堀 外堀 天守閣

* 大阪城公園案内

所在地 大阪市中央区大阪城1-1
時間 入園自由(施設により異なる)
休み 無休(施設により異なる)
料金 無料(施設利用料が別途必要)
交通 JR大阪環状線大阪城公園駅徒歩10分(青屋門)、地下鉄谷町4丁目駅徒歩10分(大手門)
周辺地図 ちず丸
駐車場 323台 (1時間350円)
問合せ先 東部方面公園事務所TEL:06-6941-1144
公式サイト 大阪城公園
探検記 大阪城天守閣大阪城公園の梅林大阪城公園の桜

大手門(おおてもん)多聞櫓(たもんやぐら)

* 大手門(おおてもん)

大阪城・大手門

大手門は城の正面のことで、追手門とも書きます。大阪城の入り口の中で一番大きく、りっぱな「口」です。大阪城では西向きに建てられた高麗門(こうらいもん) 形式(高麗門とは、門の両脇に控え柱があり、その上にも小さな屋根が載っている門のこと)の城門で、この門に入ると大きな石垣の上に鍵のてに屈折した多聞櫓(たもんやぐら)があります。大手門とそれに続く塀及び多聞櫓に囲まれた一角は、大手の桝形(ますがた)と呼ばれ防御陣地が構成されています。合戦の 際、大手門を破った敵兵は櫓の下でさえぎられ、周囲からの射撃を受けるのです。嘉永(かえい)元年(1848)の建築。

* 多聞櫓(たもんやぐら)

多聞櫓

多聞櫓という名前は戦国時代に、下克上の代表のようにいわれてる松永弾正久秀(まつながだんじょうひさひで)が居城であった大和の多聞山城に初めてこの形式の櫓をつくったことから、このように呼ばれるようになりました。現在、全国の城郭に残る多聞櫓の中で最大規模を誇ります。

top

柱継ぎ(はしらつぎ)

柱継ぎ

日本の建物のでここ一箇所しかないとされている継ぎ方、絶対上下にも横にも動かない、どうやって上下をつないだのか謎とされている。名付けて「大手門謎の柱継ぎ」と呼ばれていて大阪城のかくれた名所です。大手門の控え柱は二本とも下部に補修の跡があり、南側のものは、地面から1mぐらいが比較的新しい木材で、上部の古い木材と奇妙な継ぎ方でつないであります。四角い柱の南北両面は、山形と谷形の切り口を合わせたいわゆる”殺ぎ継ぎ(そぎつぎ)”、東南両面は”蟻継ぎ(ありつぎ)”になっています。当初の柱が下の方から腐ってきたので、その部分だけ新しい木材にかえて、継いだわけだそうです。

top

大手口桝形(おおてぐちますがた)の巨石

大手口桝形の巨石

大手門を入ったところ、巨石を使った石垣と櫓で囲まれたこの場所を大手桝形と呼びます。大阪城を訪れて最初に驚かされるのがこの石。表面積が二十九畳敷もあります。(推定重量約百八トン)瀬戸内海産の花崗岩で、城中第四位の大きさです。

top

千貫櫓(せんがんやぐら)

千貫櫓

大手門の北側にそびえる二層の隅櫓が千貫櫓で、多聞櫓(たもんやぐら)とは土塀で連結しています。元和(げんな)6年(1620)造営で隅櫓構えの重厚な造りです。乾櫓(いぬいやぐら)とともに現在大阪城内に残る建物で一番古いとされています。千貫の名は、石山本願寺時代からの呼名が引き継がれたものだという。石山合戦の際、織田信長の軍勢が本願寺に攻め込もうとしたが、このあたりに建っていた櫓から攻撃を受けるのでまったく浸入できない。それで、この櫓を落とした者には千貫分の賞金が与えられるのではないかという話なり、千貫櫓という名前で呼ばれるようになったといわれています。大阪城の正面入り口で大手を守る重要な役割を果たした櫓で、土橋を渡ってくる人々の様子がよくわかります。

top

城代井戸跡

城代井戸跡

西の丸庭園の中央西寄りに残る井戸跡は、徳川時代この地に建てられていた大阪城代の上屋敷の中にあったものである。この城代屋敷は、徳川時代を通じて延べ七十代の城代が政務を執るために勤務した場所であった。

top

坤櫓跡(ひつじやぐらあと)

坤櫓跡

旧西の丸の西南角にあった二層の隅櫓が未申(ひつじさる)、つまり西南の意味である。元和6年(1620)に、千貫櫓(せんがんやぐら)、乾櫓(いぬいやぐら)などとともに建てられ、明治維新の城中大火にも焼け残っていたが、昭和20年(1620)の空襲により焼失した。

top

西の丸庭園

西の丸庭園

西の丸庭園は芝生が美しい庭園で、桜の名所としても知られています。天守閣を真正面に眺めることができ、大阪城のスケールの大きさを体感出来る最適な場所です。西の丸は、元和6年(1620)に築かれ、多くの倉庫が建ちならんでいたが、その南に隣接して城代の上屋敷があった。これらの地域を整備し、まわり樹木に囲まれた広々とした芝生庭園として昭和40年開園した。現在の大阪城の土地は多くが国有地です。幕府から引き継がれ、今日に至っています。そのうちの一部に国有地以外の場所があり、その一つがこの西の丸庭園で大阪市の所有地です。秀吉の時代から、西の丸は本丸につぐ重要な場所でした。当初は兄秀吉を補佐して豊臣政権を支えた豊臣秀長が屋敷を構えていました。また秀吉の正室北政所(せいしつきたのまんどころ)お祢(おね)が住んでいた時期もありますが、関ヶ原合戦の前には徳川家康がここに乗り込んできて、本丸とはもう一つの天守を建てました。二つ天守があるということは城主が二人いることではないかと、豊臣家の奉行衆が憤慨して弾劾状を出し、関ヶ原合戦がおこる原因の一つになったのです。

* 西の丸庭園案内

時間 午前9時~午後5時(入館受付は午後4時30分)11~2月午後4時30分※桜の花期は、午後8時迄
休み 月曜(祝日の場合は火曜)休み
料金 入園200円(桜の花期350円)茶室使用料1回28,000円
問合せ先 TEL:06-6941-1717
top

乾櫓(いぬいやぐら)

乾櫓

西の丸庭園の西北角に建つ二層の隅櫓が乾櫓です。乾(いぬい)は西北をさす戌亥(いぬい)と同義であることから乾櫓と呼ばれました。元和6年(1620)に建てられた平面L型、総2階造り(普通は一階に比べ二階を狭くしますが、一階と二階を全く同じ面積とする建て方をいう。)の珍しい構造をもっており、美しい姿が印象的です。

top

迎賓館

迎賓館

西の丸庭園北側にある豪華な建物。西の丸庭園の休憩の場所で、中に入ると長いすが並びいつでもくつろげる空間です。

top

焔硝蔵

焔硝蔵

西の丸の東北隅、京橋門の南内側にある焔硝櫓は、全国にも比類のない石造火薬庫の遺構です。万治(まんじ)3年(1660)火薬が充満した旧火薬庫に雷が落ちて、大惨事をひきおこした事件にかんがみて、徳川幕府が貞享(じょうきょう)2年(1685)にこの総石造りの火薬庫を造りました。床も天井もそれに壁も梁(はり)も花崗岩(かごうがん)でできています。石と石との間は、漆喰(しっくい)で透き間をうめています。焔硝蔵の内部には、それがきれいに残っています。

top

豊松庵

豊松庵

茶室豊松廣は西の丸庭園の東北隅に樹木におおわれて静かなたたずまいをみせています。昭和40年(1965)、松下幸之助氏の寄贈なるもので、茶道愛好家に広く開放され、外国からの来賓もしばしばここで休息をとる場所です。

top

六番櫓

六番櫓

二の丸南面の西部にあり、かつて一番から七番まで櫓があった一つで、いずれも二層の櫓が建っていました。そのうち残っているのはこの六番櫓と、一番櫓の二棟だけです。寛永5年(1628)の建造で、徳川氏大坂城再築の末期にあたり、様式手法の点で、乾、千貫櫓とは違った特徴を現している。

top

抜け穴

抜け穴

六番櫓の西側の南面する石垣の中腹に、石一個分ほどの穴があいている。これは昭和34年の総合学術調査の際発見されたものです。約90cm角の穴は、本来奥の方へ続いていた模様。筑後柳川藩主立花宗茂とその甥の担当区域だが、謎の抜け穴か?

top

修道館

修道館

剣道、柔道、空手などの練習や試合を行う市立施設で、一般に武道館とも呼ばれています。昭和38年(1963)、二の丸南面の西部に、鉄筋コンクリート造り、瓦葺きで建設されました。

* 修道館案内

時間 午前9時~午後9時(土曜は、午後5時迄)
休み 年末年始
料金 お問い合わせください。
問合せ先 TEL:06-6941-1523
top

太鼓櫓跡(たいこやぐらあと)

太鼓櫓跡

大手口桝形を抜けて右旋回するように少し進むと、石垣にはさまれた城門跡へ出る。ここは、徳川時代の南仕切門跡で、この門の西側の石垣上にかつて太鼓櫓が建っていた。通常は時報として太鼓を鳴らしていましたが、非常時には緊急召集の合図として使われました。

top

豊国神社(ほうこくじんじゃ)

豊国神社

豊臣秀吉、秀頼、秀長を祀る。豊臣秀吉は慶長(けいちょう)三年(1598)八月十八日に六十ニ歳でこの世を去りました。亡くなる前に自らを神として祀るようにと遺言をします。その結果、慶長四年四月十七日、朝廷から豊国(とよくに)大明人という神号の宣下(せんげ)を受けました。京都の東山の阿弥陀(あみだ)峰(みね)という山の頂上に秀吉の墓がつくられ、その山麓に豪華な豊国神社ができました。「豊」の字が豊臣家をあらわすことは明らかで、豊臣家が支配することになったこの国の国家神として秀吉が自ら神様になったのです。明治十二年(1879)京都の豊国神社から分祠され、仲之島に豊国神社が建てられ、昭和三十六年にここに移されました。

top

一番櫓

一番櫓

南外堀に面して二の丸南面隅櫓七棟のうち、一番東に位置しているのでこの名がある。明治維新、第二次世界大戦の二度の戦火をくぐり抜けて焼け残った貴重な古建造物の一つです。

top

桜門

桜門

桜門は本丸の正面入り口にあります。桜門へと向かう土橋の左右は、水がない空堀になっています。豊臣時代にはこの門の前に立派な桜並木があって、そこから桜門という名が生まれたと伝えられているが、豊臣時代の桜門はもっと西寄りであった。これが、徳川幕府による寛永元年~2年(1624~25)の再築の時、今の場所に築き直されたのである。また、豊臣時代には今のような桝形形式ではなかったという。

top

蛸石(たこいし)

蛸石

桜門桝形の正面にあるのが蛸石で城内第1位の巨石である。厚さ平均0.9mとして、重さは約130tと推定される。右表面左端に蛸の形が浮かび出ることから名付けられたという。石の中の鉄分がにじみ出して、自然とこのような形になりました。

長さ 11.7m
表面積 59.43㎡
坪数 18坪 (36畳敷)
top

銀明水

銀明水

市立博物館の裏側、東北隅あたりに、コンクリートで塗り固めた四角い台状のものがある。これが銀明水井戸の跡である。今は桜門桝形の中に銀名水あるが、枡形の中にはもともと井戸はなかった。明治以降、古い井戸枠だけを移して水道を引いたものである。

top

振袖石

振袖石

振袖石は城内第3位の大きさで、形が女性の振袖によく似ているところからこう呼ばれようなりました。江戸時代には単に”袖石”とも呼ばれていたそうです。

高さ 4.2m
表面積 53.85㎡(32.5畳分)
top

旧博物館

旧博物館

中世ドイツあたりの宮殿を思わせる建物。この建物はドイツの城館を参考にしてつくられたそうです。もともとは陸軍第四師団司令部庁舎として建てられました。博物館は昭和35年(1960)にオープンされ、気軽に利用できた博物館も平成14年(2002)に閉館してしまいました。今は、ひっそりと扉を閉ざしています。

top

金蔵

金蔵

本丸には、金明水井戸屋形とこの金蔵の二つだけが徳川時代のものとして残っている。この金蔵は、現存唯一の幕府金庫で、東西三間(約5.46m)南北八間(約14.55m)であり、寄棟本瓦葺(よせむねほんかわらぶ)き1階建て、入り口は北側にある。入り口の戸は三重にし、地下からも侵入できないように床下には全部石が敷き詰められ、石と石の間には膝喰(しっくい)を入れて固め、石が動かないようにしあります。窓も小さく塗篭戸(ぬりごめど)で鉄格子をはめこんでいます。換気孔にも鉄格子がはめてあり、徹底して外部からの侵入を防ぐ工夫がしてあります。

top

タイムカプセル

タイムカプセル

昭和45年(1970)「人類の進歩の進歩と調和」をテーマに大阪で万国博覧会が開かれた。これを記念して翌年3月、当時の世界各国の文化の所産二千九十六点を格納した内径1mのカプセが二個埋設されました。上の一個は毎世紀初頭に、下の一個は五千年後に開くということです。五千年後は、人類はどうなっているのだろうか?

top

紀州御殿跡

紀州御殿跡

紀州御殿は昭和二十ニ年(1947年)米軍が占領中に焼失してしまった。桃山様式の豪華な書院造りであったという。現在、紀州御殿付属の日本庭園だけが残りました。

top

本丸広場

本丸広場

本丸は、城の一番の中心です。今は復興天守閣、博物館食堂二箇所、写真店一箇所、タイムカプセル、明治28年設置の配水池、日本庭園、金蔵、お稲荷さんと時代もまちまちの施設が混在しているが、徳川時代には天守(早く消失)をはじめ、さまざまな御殿、櫓があった。

* 秀吉手植えの樟(くす)

秀吉手植えの樟

豊臣秀吉が大阪城に築く際、てずから植えた樟の木であることを示す碑です。「秀吉手植えの樟」のことは、記録にもまったく出てきてないということです。明治になってから突然「秀吉手植えの樟」が誕生したということです。

* 残念石

残念石

両横に鎮座しているこの石は元和六年(1620)から始まる大阪城修復の時天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石として念願かなわず、いまなお数多くのこされていることから「残念石」と呼ばれいる。この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。これらの石を、小豆島青年会議所が創立十周年記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に、大阪青年会議所は商都大阪の復権を願い「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである。 昭和五十六年七月十九日 (社)大阪青年会議所 (社)小豆島青年会議所

top

金明水

金明水

この井戸は金明水と呼ばれていますが、江戸時代には黄金水と呼ばれ、金明水は金蔵の北側に別にありました。それが、いつしかかつての黄金水井戸が金明水井戸と呼ばれるようになった。黄金水、金明水、銀明水という名称は、城が攻められて、いざ籠城となると、水の確保が大変重要になり、生命線となりますから、天守閣から一番近いところから、一番大切な井戸が黄金水、そして金明水、銀明水という順に名前がつけられたようです。この井戸には、水の毒気をぬき、良い水を得るため、秀吉が黄金を沈めたという伝説がありますが、昭和三十四年の調査では黄金は一つも出てこなかったという。それどころかこの井戸は徳川幕府によって、掘られた可能性が高いことがわかった。

top

謎の石組み

謎の石組み

空堀の両端に不思議な石組みがある。この二つの石組みは、空堀と水堀の境の石垣より少し内側にあり、高さ1.5mぐらい、幅2m前後で、その両端は二の丸の石垣、本丸の石垣にそれぞれくいこませたかたちで築かれている。内部は空洞で、大人が背をかがめてやっと通れるぐらいの広さがある。この石組みから境の石垣までの間には、石畳状に敷石がしいてある。いったいこの石組みはなんのためのものだろうか?この石組みの用途については諸説があるらしいが、どれも決定的でないということです。

top

隠し曲輪

隠し曲輪

正式には帯曲輪(おびくるわ)という。隠し曲輪は通称である。いざ合戦になって、北側から敵が攻めてくる場合に、侵入してきた敵を、横から攻撃を加える仕組みになっているこの曲輪は、気づかれにくので、このような通称がおこったのでしょう。帯曲輪は、ここと玉造口桝形の東側の二箇所に設けられました。「金城聞見録」という江戸時代に書かれた文献によると、この二つの帯曲輪は秘密の抜け穴でつながっているという噂があったようです。

top

山里丸

山里丸

山里丸は本丸と同じく、内堀に囲まれたエリアにありますが、本丸に比べるとかなり低くなっています。山里という曲輪(くるわ)の名称は、豊臣秀吉時代から引き継ぐ名前です。お茶を楽しむ、そんなたいへん贅沢な空間が山里曲輪で、秀吉の命を受けて、茶頭をつとめた千利休が造営したものです。

* 刻印広場

刻印広場

大阪城の石垣で、傷みが激しく剥落する危険性があるものは、もとの石材と同じ産地から同じ形に切った新しい石と取り替えて修理します。とりはずした元の石はこれも重要な文化財ですから、それらの石で刻印のあるものを集めた場所です。

* 豊臣秀頼、淀殿ら自刀の地

豊臣秀頼、淀殿ら自刀の地

平成九年三月に、山里丸の一画にこの石碑が建てられました。大阪夏の陣で大阪城が落城しますが、淀殿や秀頼、そして側近の者たちは山里曲輪の焼残りの唐者倉(からものぐら)に篭(こも)り、やがて建物に火を放ち、自害し果てます。実は「焼残りの唐物倉」に潜んだと記しているのは禅僧金地院崇伝(こんちいんすうでん)の日記です。淀殿・秀頼自刃の地については、本当にはっきりしてないということです。

top

極楽橋

極楽橋

山里丸から内堀をまたいで、二の丸に渡る橋が極楽橋です。この橋のたもとには本来山里門があり、多聞櫓も建てられて桝形になっていましが、門も多聞櫓も明治維新で焼失し、今はありません。極楽橋も同じように、維新の際に焼失してしまいました。やっと昭和四十年(1965)に鉄筋コンクリート造りで再建されました。これが現在の極楽橋です。なぜ極楽橋というのでしょうか?かつて本丸の位置に石山本願寺の御堂があったとされてますから、やはり阿弥陀さんのおられる本願寺の御堂、すなわち極楽浄土へ向かう橋として極楽橋と名付けられたと考えています。その名が豊臣大坂城でも徳川大坂城でも、ずっと今日まで引き継がれてきたのしょう。

top

京橋口

京橋口

京橋口という名前は、ここを出て、土橋を下ったところが高麗橋を拠点とする京街道で、右に進むと京橋があるからです。ここもやはり桝形になっていて、本来は石垣の上に多聞櫓がありましたが、惜しくも昭和二十年(1945)八月十四日の空襲で焼失しました。

* 肥後石

肥後石

これが城内で二番目に大きな肥後石です。かつてはこの石が一番大きい石といわれていました。それで、豊臣秀吉の第一の忠臣である加藤肥後守清正が太閤さんのために、ひっぱってきて据えたという伝説が生まれ、肥後石とよばれるようになった。もちろんこの石も徳川幕府による大坂城の再築の際に運ばれ据えられたもので、蛸石のある桜門桝形同様、岡山藩主池田家の担当区域ですから、先の伝説は全く事実に反します。

top

伏見櫓跡

伏見櫓跡

徳川時代、南外堀には七つ、西外堀には三つ、北外堀には二つ隅櫓があったが、北外堀の北西隅にあったこの伏見櫓が唯一の三層の櫓で、他はすべて二層の櫓であった。しかも明治維新の火災にも焼けず、戦前はその美しい姿が絵葉書などで広く知られていたが、昭和20年(1945)の空襲により京都口の建築物とともに惜しくも焼け落ちてしまったのである。

top

青屋口

青屋口

青屋口は城の東北隅で鬼門にあたり、徳川時代にはいつも閉め切ったままであった。建物は櫓門とその上の多聞櫓が昭和四十四年(1969)に復旧されたが、完全復旧ではなかったためか、重要文化財の指定からはずされている。桝形は、ここだけが石垣から張り出した形の出桝形で特異です。青屋口の名は、石山本願寺時代の青屋町に由来するといわれています。

top

梅林

梅林

大阪城の東側に位置する梅林は、約1.7haの広さに92種類、1,200本近くの梅が植えられていて、春になる色とりどりの梅が咲きます。

大阪城公園梅林ギャラリー

top

石垣刻印

石垣刻印

石垣には、いろいろな種類の刻印が石垣に刻まれていて、それぞれどこの藩のものかがわかります。下の刻印は、「中」という文字がきざまれています。これは加賀百万石の前田家の刻印です。

top

玉造口

玉造口

大手口同様枡形があり、石垣の上には、やはり多聞櫓が建てられていました。残念なことに戊辰戦争で落城の折、焼失してしまいました。玉造門の方は幸い焼け残ったようですが、これもそののち陸軍の手でどこかに移建されました。石垣もすっかり破壊されてしまい、枡形としての姿を全くとどめていません。

top

音楽堂

音楽堂

大阪城の東南に位置する音楽堂は、、もともと天王寺公園にあった音楽堂を移転し昭和57年に会館しました。約3000人の収容能力があり、コンサートやイベントなど催されています。

* 音楽堂案内

時間 午前9時~午後9時
休み 月曜、年末年始
料金 お問い合わせください。
問合せ先 TEL:06-6947-1197
top

噴水

噴水

大阪城の東南に位置する噴水は、噴水を囲むようにベンチがあり、売店、自動販売機も設置されいて絶好の休憩場所です。

top

野球場

野球場

大阪城の北東に位置する野球場は、面積3hの夜間照明施設を備えた野球場です。

* 野球場案内

時間 午前7時~午後7時 夏季以外は日没迄、ナイター 午後7時~午後9時
休み 無休
料金 2時間3000円(ナイター設備使用料別途18,000円)
問合せ先 東部方面公園事務所TEL:06-6941-1144
top

大阪城ホール

大阪城ホール

大阪城北東に位置する大阪城ホールは、アリーナ方式の大規模多目的ホールで、建物の周り花崗岩を使用した自然と建物が調和した建築。

* 大阪城ホール

問合せ先 TEL:06-6941-0345
公式サイト 大阪城ホール
top

内堀

内堀
top

空堀

空堀

桜門周辺が上町台地の中で、本来は一番高く、地盤が堅かったために、地下水の水脈のある深さまで掘ることが難しく、空堀りになったようです。

top

外堀

外堀
top
カスタム検索